旅へ 中井英夫
ずいぶん遠くまで旅立つんだな
君の白い頬まで行つてしまう
その頬と旅してた
記憶だけがぼくの宝石(いし)だ
そんなにも海は
君を招いていたのか
海
この殺人者
だがあげないよ
この白い頬は
またぼくと旅するんだから
『中井英夫詩集』(思潮社)より
中井英夫の小説は素晴らしい。しかし彼の描く小説の可憐な構成力に比べると、彼の詩作品の殆どは詩の体をなしていないように私には思える…だがそれなのに、なぜか私はこの詩集をしばしば手に取って読んでしまう。なぜだろう…これにはちょっとした訳があるのではないか。
愛される詩というのは、必ずしも上手く書けているとは限らない。
上手く書くとはどういうことか…という問題は置いておいても、もしこの詩集の著者が中井英夫でなかったらどうだろうか。無残にも読みすてられてしまう類いのものではないだろうか。
私は思う。このような詩を書いている人はたくさんいる。しかしどこか「今ひとつ」と判断され、ひっそりと姿を消してしまっているのではないか…だから中井がその大勢の無名詩人たちのために、代表をかって出ているのではないか、と。
私はこの詩集を中井英夫の詩集として愛読しているのではなく、中井も交えた無名の詩人たちとともに、拙い言葉で、抱き合い絡み合いながら、耽読している。
